彼女と僕の事情(主に彼女)
トレインの中は蒸し暑かった。人が多いし、何よりもサラリーマンは無駄に厚着をしたがる。何年経っても電車がトレインになってもそのあたりは変わらないようだ。彼らは夏だというのに上着をきている事を恥ずかしいとは思わないのだろうか。休日の服装と比べれば、それがいかに厚着であるか一目瞭然なのにだ。きっと慣習というもののせいで自分の頭で考えられないかわいそうな種族なのだろう。

目をあげると中吊り広告のアイドルがニッコリと微笑んだ。そして広告は海辺の映像に切り替わった。先ほどの彼女が砂浜の向こうから水着姿で走ってきて最終的にはアップで微笑む。手にはいつの間にか飲物を持っていて、それをゴクゴクと飲み干した。そして「まず〜い、もう一杯」というテロップとともに商品画面に切り替わってしまった。今でこそ動く中吊り広告が当たり前だけれど、僕が小さい頃はただの一枚絵だったと思う。地方の電車に行けばそういう中吊り広告もまだあるらしく、マニアな人たちは遠征を繰り返しているようだ。そもそもトレインの中の広告が動くようになったのは視線指向性紙が一般的になったからだ。僕が今見た広告は僕の視線に反応して動き出したわけで僕以外の人には動いている映像が見えない。全ての広告がずっと動き続けていたら、それはとてもウルサイ状態になっているはずだ。

「まもなく○○駅に近づきます。御降りの方は昇降帯へ御急ぎください。」

トレイン内にアナウンスが流れる。基本的にトレインは止まらないものだ。代わりに乗り降りには昇降帯が使われる。僕は昇降帯に移動した。昇降帯はトレインと併設して走るエリアでトレインの半分くらいの広さである。駅が近づき昇降帯が減速を始めた。トレインは止まらない。昇降帯だけが駅に止まり人々を乗り降りさせるのだ。駅に降り立った僕は腕時計に目をやる。待ち合わせの5分前だった。どうやら今日は待ち合わせに遅れなかったようだ。僕の背中では次に来るトレインに間に合うように昇降帯が出発していった。

「あ〜、また遅れた。」
改札口を出たところで待っていた彼女が開口一番で文句を言った。
「そんなこと無いよ。」
僕はそういいながら腕時計を見せる。
「そんなことあるのよ。」
彼女がそういいながら腕時計を見せる。彼女の時計では待ち合わせ時間を5分も過ぎていた。どうやら僕の時計はまた遅れていたようだ。
「自動調整機能の壊れた時計はやめてって言ってるじゃない。だいたい、いくら多機能でもカメラがついていようともスケジュール管理が出来るんでも格好が良くても肝心の時計としてきちんと機能しないのなら全然意味は無いわ。そんなの役立たずじゃない。時計をしていると言えないわよ。本当に必要なのは時計、それ以外はおまけよ。それを履き違えてはいけないんじゃなくて。」
「そうだけど、そうかもしれないけど気に入ってるんだよね。この時計・・・。」
「それはわかってるわ。あなたがどれだけその時計を大事にしているか。どれだけ愛用しているのかも知っているわ。でもね、愛着と時計が遅れるって事とを天秤にかけた場合、私にとってどっちが大事だと思う。そのクソ食らえな腕時計が遅れるたびにあなたが待ち合わせに遅れて、その度に私はイライラするの。きっとイライラは私の寿命を縮めてる。そのいまいましいコンチクショウな時計が遅れるのと同じくらいの時間ね。」
「それは言いすぎじゃ。」
「言い過ぎ?とんでもない。私は世界一寛容で有名なくらいよ。あなた今までどれだけ待ち合わせに遅れて来たか覚えてる。覚えてないでしょう。私も覚えてないわ。つまり数え切れないくらいって事よ。それから毎回、同じ事を言うの。その時計を何とかして、プリーズってね。もううんざりだわ。」
彼女はおおげさにリアクションをとり僕にぐうの音も言わさないのだった。

「そうだわ、今日は時計を買いに行きましょう。いいアイデアね。それが世界で最も良い解決方法だわ。」
「え、でもちょっと持ち合わせが。」
「持ち合わせ?いいわ、そのくらいプレゼントしてあげる。あなたの時計が遅れることで困るのは私。いいえ、言うならばあなた以外。だけど特に私。そうね、どんな時計がいいかしら。シンプルなのがいいわ。無駄に多機能よりも、しっかりと時計だけに注力して作られているほうが信用できそう。それとやっぱり生体感応充電式がいいわね。だって電池切れで時計が止まったら、あなた電池を取り替えるんじゃなくて時計をしなくなりそうだもの。そうそう心配しなくていいわ。その個人情報の全てが入ったオモチャを外せなんて言わないから。それも生体感応充電式だけどバッテリーがへたってるから腕から外すとすぐに止まっちゃうって言ってたものね。大丈夫、私は世界一寛容で有名なの。私の要求は1つだけ。私が贈る腕時計もしてくれるだけでいいの。そうたったそれだけ。簡単でしょ。ああ、なんでもっと早くそうしなかったのかしら。さぁ、早く買いに行きましょう。」



戻る